額縁の外へ

 

 ずっと考えていたことがある。枠を踏み越えることの魅力と、踏み越えられる快感についてだ。

 

 10月か11月あたり、GyaOM-1グランプリ準々決勝の動画が配信されていた。その中にあったDr.ハインリッヒのネタが今でもかなり印象に残っている。かなり面白かったし、今まで見たことの無いような漫才だったからだ。でも、原因は他にもある。

 

 それは「でもね、お客さんがたもそうなんですよ」というセリフだ。

 これだけだと大したフレーズではない。まず、これを言った彼女はそれまでずっとずっと意味のわからない話をしていた。そういうネタだった。意味がわからなく、不思議で、だからこそ面白かった。「こいつ何言ってんだよ」という話を延々と垂れ流していて、なおかつ、それに対する相方の返しもとんちんかんで絶妙だった。つまり、2人だけの世界で完結していたのだった。それで充分面白かった。2人は2人だけで話をしていて、だから観客の私達は意味がわからなくたっていいし、ただ面白がっているだけでいい。大げさだけど、絵画を見ているようだったと言ってもよかった。

 

 その、絵画の中の人物が、いきなりこちらを向いて上記のセリフを言った。動かないはずの筋肉が動き、こちらを見るはずのない目が観客席を見たのである。びっくりした。こちらに話しかけてくると思わなかった。

 もちろん、それはネタの流れをスムーズにするためのひとくだりでしかなく、別に本当に客に、私に話しかけているわけではない。というか芸人としてM-1の予選に出ている以上、マジで2人だけで話していて観客のことを考えていないわけがない。でも私はその時、額縁の中からぬっと手が出てきて、手首をつかまれて引きずり込まれたような気がした。この人たちと私は同じ次元にいるのだと再認識させられた。

 

 

 というような感想を、私はここ1.2ヶ月の間ぼんやり抱えて過ごしていた。言語化する機会がなかったんだけど、わりと頭にこびりついていた。あの瞬間のどきどきは一体何なのか分からなかった。

 でも今日のモンスターハウスでわかった。これは枠を踏み越えられた時の快感だ。

 

 

 もうモンスターハウスについては説明しない。多分今だったらトレンドに入ってるし、ちょっと経ったって「も」って入れただけでサジェストされるだろう。知らない人はその手に持ってる板とかで調べてほしい。あとついでにスタンフォード監獄実験とか調べるといい。

 

 ところで皆さんは赤と青どっちを押しただろうか。まあわりと皆赤一択だったんじゃないかと思う。

 私は、いざ投票権をぽいっと投げてよこされた時に、なぜだかすごく迷ってしまった。民意は赤──「許さない」だろうし、現に一緒に見ていた母親は赤を押せと息巻いている。でも私の中のいちばん生ぬるい部分がそこまですることないんじゃないと青──「許す」に手を伸ばしたがっている。どうすりゃいいんだ。っていうかなんでバラエティ番組でこんなぐちゃぐちゃにならなきゃいけないんだよ。そうこうしているうちにどんどん赤のゲージが伸びていって、いやなんか皆狂ってるなと思い始めた。

 そして、恐れると同時に、かなり興奮している自分に気づいた。

 

 またこの感覚だ。私はこれを知っているのである。真っ暗な部屋のベッドの上、スマホのちっちゃい画面でみたあのDr.ハインリッヒのネタ。「でもね、お客さんがたもそうなんですよ」。

 

 額縁の中から出てきた手が、また私を引きずり込んだのだ。枠を踏み越えられた時の快感。それは、無理やり当事者へと引きずり降ろされた時の高揚感だ。

 あの時、私たちは指先ひとつで決めることが出来た。ただテレビの前に座っていたはずなのに、いつのまにかバラエティを成立させるための一員になっていたのである。そういう意味ではタイガやらんちゃんと変わらない。あんなに気味悪がっていたクロちゃんとでさえ同じということになる。

 

藤井健太郎はやばい人だなあ。私はつくづくそう思った。これではモンスターが一体誰なのか分からない。もしかしたらみんなモンスターなのかもしれない。赤に入れた人も青に入れた人も、豊島園に行ってクロちゃんを見物する人もしない人も、クロちゃんの人権を主張してBPOに抗議を入れる人も、もう関わってしまったからには己の中の怪物性を大なり小なり発露することになる。観客ではいられなくなる。

 

 私の手の中には未だ投票権が残っていた。テレビに表示される赤いゲージとその数字は留まることを知らなかった。なんらかの線を踏み越えることをイメージしながら、私はボタンを押した。